作文と小論文

 

高校生のとき、小論文を国語か総学の時間にやったよなんて方多いのではないでしょうか。

 

さらにその小論文を赤ペン先生に提出して、数日後鬼のように真っ赤になってきたよなんて経験おありではないでしょうか。

 

 

そもそも小論文はなんのためにするのか 作文と何が違うのか僕なりの意見を書いていこうと思います。

 

まず、小論文はなんのためにするのか この疑問なんですが、これは文章力だけでなく、思考力・想像力・論理的な主張 この3つにも重きをおいているんじゃないかなと思うわけです。

書き方としては簡単にまとめると

序論(自分の主張)

本論(主観を取り除いた具体的な例と根拠)

結論(序論と本論をふまえたさらに明確な主張)

というのを実践していきます。1200字〜1500字程度がおそらくの目安だと思うのですが、この限られた文字数にいかに相手を納得させる文章を作ることができるかがカギになります。ただやみくもに小論文の練習をやっても力はつきません。まずは評論や小説の要約をやってみましょう。重要なポイントをおさえることや筆者が何を述べたいかについて考えることができます。これはおそらくセンター国語の現代文においても多少役立つのではないかなと思います。

さらに言えば、これは大学に行っても役立ちます。レポートや卒論をする際、具体的な根拠を示した参考文献とともに自分の主張を示す力となるからです。

 

 

次に、作文との違いですが、いたってシンプル 自分の主観が本論にあるかないかです。作文は自分の経験談をつらつら書いて「だから私は〜」みたいな文章ができあがるわけです。

一方、小論文は「自分が〜だったからこれ!」なんてことはまったく通用しません。問題文の中に、それとなくヒントが隠されていたり、データを参照しながら自分の意見を述べていったり、筆者の反対意見となるものを文中から探してみたりと読解力が試されているのです。

現代文の記述で、「〜とはどういうことか具体的に説明しなさい。」なんて問題がよくあると思いますが、これも筆者の論理的主張を読み取る力を使っていて、要約ポイントとして挙げられているのを考えるという問題なのです。

 

 

またまた長い文章になってしまいました。

「現代文苦手だよ」「入試で使うかも」なんて人は1つの手がかりとしてみてもらえるとありがたいです。

映画

 

唐突ですが、映画が好きです。

邦画、洋画特にこだわりなくいろいろなものをみます。

父親の影響でゴジラシリーズ、ルパン三世 あとはハリーポッターシリーズは全部みてるんじゃないかと思います。最高に面白いです。

 

 

洋画はみなさん、字幕派・吹替派どちらですか?僕は断然字幕派です。俳優さんの声のイメージと吹替の声のイメージがごちゃごちゃになるのが嫌というのが大きな理由です。あと字幕のほうがおもしろい表現してる印象があります。

 

ただ、まだ手を出してないジャンルがあります。SFとアメコミです。興味がないわけではないですが、なんかシリーズがごちゃごちゃしてるイメージがあって、それを覚えるのが非常にめんどくさいのと時間がないのでまだみられてません。(ていうか、たぶん今後もみないと思う。)

 

 

僕がおすすめしたい映画で締めたいと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

音楽

 

「音楽を聴く」

 

みなさん、音楽聴くことは好きですか?

僕は大好きです。このブログを書いている今現在も音楽を聴きながら書いています。ちなみにいま流れているのは GryffinのTie me downです。

 

 

僕が音楽に興味を持ち始めたのは小学校6年生くらいだった気がします。当時は特に好きなアーティストはいなかったので、ただテレビでMステを垂れ流していました。そしていろんなアーティストを知っていくうちにいろんなとこで聴けたらなぁと思うようになり、お年玉でipod nanoを買いました。

 

そして、いろんな曲を聴いているうちに自分の好みが分かってきました。音楽で自分が知らなかった自分を知れた気がしてとても嬉しかったのを鮮明に覚えています。

 

ただ、中高大のうちに聴くジャンルは少しずつ変わってきています。ちなみに今はEDM、ロック、ヒップホップを主に聴いています。

高校生になりなんとなく洋楽も聴いてみようかなと思い、それ以来洋楽も頻繁に聴くようになりました。

 

僕は歌詞というよりもどちらかというとメロディーで好みを分けるタイプなので、「ここの歌詞が〜」「サビの歌詞いいよね」なんて話はあまりしません。もちろんいいなと思う歌詞はありますが。

 

みなさんのおすすめも教えていただけたら嬉しいです。

 

 

 

萌え袖

「萌え袖」

 

という1つのファッション(?)がある。

 

単刀直入に言う。

 

 

意味がわからない。

 

 

あれのかわいさというものを未だに見いだせていない。そもそも日本だけなんじゃねこれやってるの。女の子が男の子のブカブカな服を着ている姿がかわいらしいなんてところから来ているのか、そもそも袖に手を隠しちゃってる姿がかわいいのかそれすらわかっていない。

 

 

百歩譲って女の子の萌え袖はアリにしよう。(繰り返しになるが意味はわからない。)

男の萌え袖なんて見るに堪えない。キモい。

 

 

 

男目線だからそう感じてしまうのだろうか?腐女子だったら歓喜なのだろうか? 

 

 

 

逆に女の子が女の子の萌え袖をみて「うーわ、あざとっ」となるのか?そういうやつに限って、「いやいや、おまえらもやってるやん。」ってなるのはお決まりの文句だ。

 

そもそも

 

「萌え袖」=かわいい

 

という認識が謎だ。仮にあれを中の下くらいの絶妙にブスな人がやっていたとする。それはかわいいとはならないだろう。だってブスなんだから。

 

では、かわいい子がやったらどうなるのか。「うわ、萌え袖やってる!かわうぃ〜!」となるのか。僕は経験上なったことがない。だってその子がかわいいんだから。萌え袖なんかやらなくてもかわいいもんはかわいいんだから。

 

「萌え袖反対!断固拒否!」なんてことはないが、何度も言うがあれのかわいさは謎だ。萌えない。本当に萌えない。ただの「手隠し」としか思っていない。  

 

 

 

あれで「誰でもかわいさ増し増し!」となるなら苦労しない。結局はかわいい子にしか映えないのである。男なんてもっての外だと思う。ただただ見るのがつらい。まぁ萌え袖でかわいさUPするよっていう効果があるなら1つのアクセサリーとして認識せざるを得ないのだが。結局第一は顔だという人が大半だろうからそのアクセサリーを活かせるのはごく一部の人間に絞られるのかなとも思う。

 

 

 

つまり、何が言いたいかというと、

 

 

「僕のようなブサイクに救済措置を」

 

 

 

 

なぜ勉強をするのか

今から1〜2年前でしょうか。僕が塾講師のアルバイトをしていたとき、ある一人の中学生の生徒にこう言われました。

 

「なんで勉強しないといけないの?」

 

みなさん、一度はこのような疑問をもったことあるのではないでしょうか?

その生徒は塾に通ってるのになかなか成績が伸びずにいたため、イライラしていたのでしょう。八つ当たり感覚で僕にこの疑問を投げかけてきました。

 

実際僕自身も中学生、高校生のときは何度か考えたことがあります。日本史が苦手だった僕は「いやいや、過去学んで何になるの?未来見ようぜ。」とわけのわからないことをほざいていた記憶があります。

 

話を戻して、この疑問を短時間で解決するために咄嗟に出た言葉は

 

「いや、しないといけないわけじゃないよ。やりたくないならやらなくていいよ。」

 

勉強を教える立場の人間としてはあるまじき回答でしょう。ただこのままではまずいと思い、少し残酷な話をしました。まぁこの話も結局講師としては最悪です。

 

「じゃあ、逆に質問するけどなんで最後は死ぬってわかってるのにみんな必死に生きてると思う? 」

 

その生徒は少し考えて

 

「やりたいことやるため」

 

という回答を導き出しました。僕が答えてほしいなと思っていた理想の回答が返ってきました。そうです。将来やりたいこと、なりたいもの それを目指すためには勉強は必要不可欠です。いわば土台です。その基盤を作り上げるために勉強をし、土台にするのです。それは苦しいに決まっています。ただそこで頑張った分将来の役に立つのも明らかです。何事にも最後に待っているのはやりきった「達成感」です。

 

ここで僕が中学生のときに担任から教わった印象深い言葉を書きたいと思います。

 

「苦難」という言葉がある。これがあるのとないので人生は大きく変わる。「苦難」が「無い」で「無難」、つまりなんの変化もないただただ無難な人生。「苦難」が「有る」で「有難」、送り仮名に「い」を付け加えてみよう。「有難い(ありがたい)」だ。人生は「苦難」の連続だ。だが、その「苦難」を乗り越えてこそ味わえるものがある。そのとき初めて感謝することを知るんだ。

 

「勉強しないといけない」なんてことはありません。したくなけりゃしなくていいです。この意見は今も全く変わりません。ただそこで与えられた「苦難」を乗り越えるか放っておくかで人生は大きく変化するとも思っています。

 

 

勉強はほとんどの生徒が嫌いなのではないでしょうか。それは日本の学校教育が勉強を作業化しているからだと思います。ただの流れ作業なんて誰しも飽きるに決まってます。そこであらゆる変化を自主的に加えながら勉強していけるかどうかがカギになります。最近では「アクティブラーニング」が導入され始め、教師が一方的に教えるのではなく生徒に考えさせる授業を行う取り組みが徐々に為されています。「勉強をする」のが嫌いではなく「勉強」そのものが嫌いになられては元も子もないでしょう。そのために今やっと改善され始めた頃でしょう。今掲げている目標に到達するのにあと何十年かかるのでしょうか。そんなことを考えながら、僕もそんな壮大で過酷な世界に挑戦するため勉強に励んでいます。

 

みなさんもちょっと立ち止まって、改めて「勉強」について考えてみてはいかがでしょうか。なげぇ。