なぜ勉強をするのか

今から1〜2年前でしょうか。僕が塾講師のアルバイトをしていたとき、ある一人の中学生の生徒にこう言われました。

 

「なんで勉強しないといけないの?」

 

みなさん、一度はこのような疑問をもったことあるのではないでしょうか?

その生徒は塾に通ってるのになかなか成績が伸びずにいたため、イライラしていたのでしょう。八つ当たり感覚で僕にこの疑問を投げかけてきました。

 

実際僕自身も中学生、高校生のときは何度か考えたことがあります。日本史が苦手だった僕は「いやいや、過去学んで何になるの?未来見ようぜ。」とわけのわからないことをほざいていた記憶があります。

 

話を戻して、この疑問を短時間で解決するために咄嗟に出た言葉は

 

「いや、しないといけないわけじゃないよ。やりたくないならやらなくていいよ。」

 

勉強を教える立場の人間としてはあるまじき回答でしょう。ただこのままではまずいと思い、少し残酷な話をしました。まぁこの話も結局講師としては最悪です。

 

「じゃあ、逆に質問するけどなんで最後は死ぬってわかってるのにみんな必死に生きてると思う? 」

 

その生徒は少し考えて

 

「やりたいことやるため」

 

という回答を導き出しました。僕が答えてほしいなと思っていた理想の回答が返ってきました。そうです。将来やりたいこと、なりたいもの それを目指すためには勉強は必要不可欠です。いわば土台です。その基盤を作り上げるために勉強をし、土台にするのです。それは苦しいに決まっています。ただそこで頑張った分将来の役に立つのも明らかです。何事にも最後に待っているのはやりきった「達成感」です。

 

ここで僕が中学生のときに担任から教わった印象深い言葉を書きたいと思います。

 

「苦難」という言葉がある。これがあるのとないので人生は大きく変わる。「苦難」が「無い」で「無難」、つまりなんの変化もないただただ無難な人生。「苦難」が「有る」で「有難」、送り仮名に「い」を付け加えてみよう。「有難い(ありがたい)」だ。人生は「苦難」の連続だ。だが、その「苦難」を乗り越えてこそ味わえるものがある。そのとき初めて感謝することを知るんだ。

 

「勉強しないといけない」なんてことはありません。したくなけりゃしなくていいです。この意見は今も全く変わりません。ただそこで与えられた「苦難」を乗り越えるか放っておくかで人生は大きく変化するとも思っています。

 

 

勉強はほとんどの生徒が嫌いなのではないでしょうか。それは日本の学校教育が勉強を作業化しているからだと思います。ただの流れ作業なんて誰しも飽きるに決まってます。そこであらゆる変化を自主的に加えながら勉強していけるかどうかがカギになります。最近では「アクティブラーニング」が導入され始め、教師が一方的に教えるのではなく生徒に考えさせる授業を行う取り組みが徐々に為されています。「勉強をする」のが嫌いではなく「勉強」そのものが嫌いになられては元も子もないでしょう。そのために今やっと改善され始めた頃でしょう。今掲げている目標に到達するのにあと何十年かかるのでしょうか。そんなことを考えながら、僕もそんな壮大で過酷な世界に挑戦するため勉強に励んでいます。

 

みなさんもちょっと立ち止まって、改めて「勉強」について考えてみてはいかがでしょうか。なげぇ。